-(으)니까は主観で-아/어서は客観?

理由、原因、根拠などを表す語尾に-(으)니까と-아/어서があり、「-(으)니까は主観で-아/어서は客観である」という説明も見掛けるのですが、個人的にはその説明は消化できず。「AだからB」という文の場合に、「-(으)니까では『AだからB』という判断が主観的で、-아/어서では『AだからB』となるのが客観的に見て納得できる」と説明されればなんとなくわかった気にもなりますが。
いずれにせよ、「Aの部分が話者の主観によるものか客観的に見て正しいと思われるかという意味ではない」ということはわかります。「추우니까 따뜻하게 입으세요.」「추워서 따뜻하게 입었다.」がどちらも問題ない言い回しなので、「Aの部分が話者の主観かどうか」ということにはならないでしょうから。
個人的には「-(으)니까の後ろでは命令などをできるが(理由、原因、根拠などの意味での)-아/어서の後ろでは命令などはできない」というのと、「-(으)니까も-아/어서も使える状況で-(으)니까を使うと『主観的な判断で言っている』というニュアンスが強くなる」という説明でいいのではないかと思います。

で、『韓国語学習ジャーナルhana』という本があるのですが、Vol.43(2022年3月発売)の「韓国語文法ドリル」(著者は白宣基氏)で、以下のような説明がありました。(以下、引用は全て『韓国語学習ジャーナルhana Vol. 43』)

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-(으)니까に関する説明

②이 약이 잘 들으니까 드셔 보세요. この薬はよく効くからお試しください。
相手の症状にはこの薬が効果があるというのは治験に基づいた客観的事実であるのは間違いないのですが、この薬を勧めるのは医師や薬剤師個人です。治験に基づいたデータが正しいと医師や薬剤師としての自らの知見や知識、洞察、すなわち、あくまで主観によって判断し、患者さんに召し上がれと勧めているのです。

なんかぐだぐだと説明していますが、要約すると「薬が効果があるというのは客観的事実だが、治験に基づいたデータが正しいと主観によって判断」ということになると思います。要は「Aは主観である」という説明なのですが、そんな説明をしてどうするんですかね? そもそも「Aの部分が話者の主観かどうか」は関係ないので、Aが主観的な判断か客観的事実かという説明は不要なはずで、逆に混乱を招くものだと思います。
ちなみに、この場合の「主観的な判断」は。「この薬は効くから飲んだ方がいい」というもので、「この薬が効くというデータが正しい」ではないと思います。「この薬が効くというデータが正しい」としても、例えば副作用が強いとか、保険が使えないので高いとか、別の理由で勧めないことはあるわけですし。

⑤안 무서우니까 같이 가지요. 怖くないから一緒に行きましょうよ。
怖くないというのは話者の主観です。わざわざ「怖くないから」と述べているということは、相手にとっては怖いのだと認識している証拠です。

「怖くないというのは話者の主観」というのは正しいと思いますが、上と同様、この説明は不要だと思います。「怖くないというのは話者の主観」だったらなんだというのでしょうか? こういう説明を積み重ねることにより、「-(으)니까を使った場合、Aは主観的な判断と見なされる」とミスリードすることになります。
また、「怖くないから」と言って相手を誘ったら「相手にとっては怖いのだと認識している証拠」になるのでしょうか? 例えば重篤なアレルギーを持っている人に対して「この料理にはアレルゲンは入ってないから食べて」と言った場合、相手は「アレルゲンが入っていると認識している証拠」になりますか? そのようなケースでは、「アレルゲンが入っていないと確信できなければ食べない」と考えるでしょうから、「アレルゲンが入っていると認識している証拠」とはならないと思います。これを例文のケースに当てはめると、相手は「怖くないと確信できなければ行かない」と考えている可能性もあり、「怖いのだと認識している証拠」にはならないと思います。著者の脳内の設定ではそうなのかもしれませんが、そういう説明を付け加えないと他の人には通じません。

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-아/어서に関する説明

④너무 많이 먹어서 배가 불러요. 食べ過ぎて(あまりにもたくさん食べて)おなかがいっぱいです。
-아/어서は誰が見ても納得できる客観的な事実を根拠として述べる語尾です。この例文の場合も、誰が見ても大食いが原因であると思われます。먹으니까とすると、大食いかどうかの事実と関係なく、話者の主観が前面に出てきてしまい、きつい言い回しになってしまいます。

「-아/어서は誰が見ても納得できる客観的な事実を根拠として述べる語尾です」と言い切ってますね。「-아/어서の場合、Aは客観的な事実である」と言っています。本当に大丈夫でしょうか?
あと、「大食い」というのはわかりにくいので「食べ過ぎ」と言い換えますが、誰かが「おなかがいっぱいだ」と言った場合、「誰が見ても食べ過ぎが原因」と言えるでしょうか? 病気や薬の影響で、少し食べただけでもおなかがいっぱいと感じることもあるでしょうし、そもそも「食べ過ぎ」の基準はあるのでしょうか?
먹으니까とした場合も、「食べ過ぎかどうかの事実と関係なく」なるのでしょうか? 理解できないことが多いです。

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まとめ

全体的に、-(으)니까ではBの内容も絡めて「主観的な判断」という説明をしている箇所はあるもののAだけを取り上げて「話者の主観」という説明も多く、それに対して-아/어서では「Aは客観的な事実」という説明があり、仮に著者の認識は間違っていないとしても読者をミスリードするものであり、なんとも残念というか、ひどい内容だと思います。

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